[Indian Love Call]Indian Love Call オットー・ハーバックとオスカー・ハマースタイン二世が作詞を担当し、ルドルフ・フリムルが作曲したオペレッタ【Rose-Marie】のなかに入れられた曲で、1924年の作品だ。この【Rose-Marie】は当時はたいへんなヒット・オペレッタで、ヨーロッパ色の濃いミュージカルのいわば最後の時代における最後のヒットの一つだった。
[Only Trust Your Heart]Only Trust Your Heart この曲は1964年にアストラド・ジルベルトが歌って有名になった。彼女がボサノヴァで歌ったせいか、これはほとんどボサノヴァで歌われるようだ。曲はトランペトとアルトサクスをこなすジャズ畑の大御所ベニー・カーターが書いていて、歌詞はサミー・カーンによっている。カーンは’57年に Nicholas Brodszky の曲に同名の歌詞を書いていて、それはディーン・マーティンが歌って出されているが大きなヒットとはならなかった。
[Please Be Kind]Please Be Kind サミー・カーンとソール・チャップリンが1938年に書いた曲で、ミュージカルや映画とは関係ない。カーンとチャップリンは’34年ごろから一緒に曲を書きはじめ、’35年からヴァイタフォン Vitaphone という、今ならミュージック・ヴィデオのような短編音楽フィルムを作っていた会社に曲を書いていた。
[Temptation]Temptation アーサー・フリード作詞、ネイスィオウ・ハーブ・ブラウン作曲で、1933年の映画『Going Hollywood』(MGM)に入れられた曲である。そこではビング・クロズビィが歌い、そのレコードはチャートで’33年12月末から翌年初めにかけて3位まで上がり、ファーディ・グロウフェ楽団のレコードも同時期に19位までいった。
[These Foolish Things]These Foolish Things ジャク・ストレイチー作曲、エリク・マシュウィツ作詞で1935年に作られた曲だ。ロンドンのレヴュー【Spread It Abroad】(’36)に使われた。なかではドロスィ・ディクソン Dorothy Dickson (1893–1995)が歌い、レヴューは200回を超えるくらいで大きなヒットではなかった。マシュウィツはこのときホルト・マーヴェルという芸名も使っていて、ストレイチーとともにイギリス人だが、レヴューではアメリカ人でイギリスに来て仕事をしていたハリー・リンクも加わり、2、3番の歌詞のブリジを担当したという。
[Two Sleepy People]Two Sleepy People フランク・レッサーが作詞し、ホウギィ・カーマイケルが作曲して、1938年の映画『Thanks for the Memory』(Paramount)に使われた曲だ。そのなかではボブ・ホウプとシャーリー・ロスが、主題歌[Thanks for the Memory]と同じく、これを歌った。
[Where Can I Go without You]Where Can I Go without You ペギー・リーが作詞し、ヴィクター・ヤングが作曲して、1952年に発表された曲である。ミュージカル、映画とは関係がない。チャートでは’54年3月にペギー・リーの歌で28位に入っただけだったが、ナット・キング・コールの歌の方が有名になり、またメル・トーメも歌っている。
[Why Try to Change Me Now]Why Try to Change Me Now この曲は、当時まだ23歳で作編曲の仕事を始めたばかりのサイ・コウルマンが書き、ジョウゼフ・アラン・マカースィ・ジュニアが歌詞を書いた。フランク・スィナトラは’40年代初めからソロ活動に入って、ジャズ歌手の新しい形を作りつつあり、すごい勢いで上昇してきたが、この頃’50年代初めは私生活のことも含めて大きく下降していて、ちょうどコロンビア・レコードとの契約切れを迎えたところだった。それに加えてコロンビアのA&R(Artists and Repertoire)マン/ミチ・ミラー Mitch Miller とうまくいかなくなり、コロンビアを出るのはやむを得ない展開だった。
[Wrap Your Troubles in Dreams and Dream Your Troubles Away]Wrap Your Troubles in Dreams and Dream Your Troubles Away この曲は、当時まだ23歳で作編曲の仕事を始めたばかりのサイ・コウルマンが書き、ジョウゼフ・アラン・マカースィ・ジュニアが歌詞を書いた。フランク・スィナトラは’40年代初めからソロ活動に入って、ジャズ歌手の新しい形を作りつつあり、すごい勢いで上昇してきたが、この頃’50年代初めは私生活のことも含めて大きく下降していて、ちょうどコロンビア・レコードとの契約切れを迎えたところだった。それに加えてコロンビアのA&R(Artists and Repertoire)マン/ミチ・ミラー Mitch Miller とうまくいかなくなり、コロンビアを出るのはやむを得ない展開だった。
[You’re Nobody ’Til Somebody Loves You]You’re Nobody ’Til Somebody Loves You トロンボーン奏者でアレンジャーとしてバンド・リーダーとして活躍したラス・モーガンが1944年に書いた曲で、ラリー・ストック、ジェイムズ・キャヴァノウとの共作になっている。だがその時はほとんど売れず、2年後の’46年にモーガンのオーケストラのレコードがヒット・チャートで14位まで昇って、いくらかヒットした。