【研究】詩から歌詞への変貌
ジェロウム・カーンが英国滞在中に知り合い、彼の英国で上演したショウの多くの作詞を担当したP・G・ウドハウス P. G. Wodehouse (1881-’75)は英国人で、小説家、詩人でもあり、雑誌に寄稿していたコラムニストでもあった。
ジェロウム・カーンが英国滞在中に知り合い、彼の英国で上演したショウの多くの作詞を担当したP・G・ウドハウス P. G. Wodehouse (1881-’75)は英国人で、小説家、詩人でもあり、雑誌に寄稿していたコラムニストでもあった。
サヴォイのフロアの北東の隅は、プロや踊りの専門家だけが集まる場所になっていて、Cat’s corner と呼ばれていた。Cat はジャズ・ミュージシャンのことをさすミュージシャン用語だが、必ずしもジャズ・ミュージシャンだけでなくなにかの〈通〉という意味がこめられていた。
アイラ・ガーシュウィンは著書《Lyrics on Several Occasions》で、意味論 semantics の大家S・I・ハヤカワが’55年冬季の専門季刊誌に載せた論文について書いている。ハヤカワはカナダ生れの日系人で、アメリカの大学で言語学などを教え、’68年から’72年までサンフランスィスコ州立大学の学長も務めた人で、学生運動がおこるといち早く警官隊を導入し、タカ派ぶりを発揮して話題をまいた。
’39年秋のコットン・クラブのショウは二つ用意された。一つは、【ミカド】が11月初めに全国公演にでかけることになっていたので、ビル・ロビンソンがそれまではニューヨークにいるということを利用して、彼を中心に組み立てられた。バンドはルイ・アームストロングのグループが新たに雇われた。
’38年春のショウにはまたデューク・エリントン楽団が戻ってきた。エリントンはライフ誌で〝アメリカの20人の傑出した黒人〞の一人に選ばれたところだったし、しかも今度はショウの全スコアを複数の作詞家とともに彼が書くことになったので、彼の意気込みはいつもとは違っていた。
ダウンタウンに移転したコットン・クラブは、ブロードウェイと48番街の交わるところにあるビルの一番上の広い部屋を借りた。ブロードウェイの劇場地区は〝不夜城〞というような意味で The Great White Way と俗に言われていたが、そのビルはしかもその中心に位置していた。
カーン作詞、ドナルドソン作曲で、’25年に歌手のエディ・キャンターのために書いたもので、キャンターが歌ってヒットした。また同年ジーン・オースティンの歌ったレコードもよく売れてヒットした。
’60年にトランペッターのナット・アダレイがつくり、彼と兄のジュリアン・キャノンボール・アダレイ率いるグループが演奏してヒットした曲だ。のちに歌手のオスカー・ブラウン・ジュニアが歌詞をつけて歌った。
マット・デニスが曲を書いてトム・アデアが歌詞をつけた’41年の曲で、映画やミュージカルとは関係ない。この年、デニスはこの曲のほかにも10曲ほど書き、そのどれも非常に質の高いスタンダードになっていて、この時期は創作意欲旺盛なときだった。
キャルマーとルビーが作詞し、スナイダー作曲の’23年の曲で、ヴォードヴィルでヴァンとシェンク Van and Schenck のグループによって歌われてヒットした。