【研究】英語の人名などの日本語表記について

 英語などの外国語の単語や人名の日本語表記は、問題がいっぱいあって非常に難しい。ガーシュウィン兄弟の曲[How Long Has This Been Going On?]をオードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn が歌ったのは私も映画で見たが、このヘップバーンという名が難しい。なぜかというと、ヘップバーンと言うとまず英米人には通じないのだ。日本に長年いて日本人のひどい発音に慣れている外国人はわかってくれる場合もあるだろうが、英米などに行って発音するとまず絶対に通じない。

 今の日本語表記はほとんどがヘボン式というローマ字表記によっている。それは幕末の1867年に日本に来ていたアメリカ人ジェームス・カーティス・ヘボンという学者の和英辞書《和英語林集成》に準拠したローマ字の発音と表記法である。だが問題はいっぱいあり、それ以来あれこれ改革がなされているけれども、この方式がとくに良くなったとも思えない。日本語と英語の根本的、本質的違いであって、これはどうしようもないことでもある。とはいえ、この「ネット版・ジャズ詩大全」では私はできるだけ英語発音に近づけて表記するように努力してきた。

 ナット・キング・コウルやコウル・ポーターの Cole はコールではなくコウルと発音せねばならず、これも正しい発音でなければまったく受けつけない英米人もいる。このネット版では私はナト・キング・コウルと表記している。こういう発音の問題を考えていくと際限なく困難にぶつかって、どこまでも悩まされつづける。シンガーとかバイオリンでは間違っても通じる可能性はないので、スィンガー、ヴァイオリンと表記すればいくらか通じる場合もあるだろう。でもやはり決定打ではなくほんの妥協案にすぎないが、とりあえずここでは私はこういう表記に頼ることにしたい。

 同様に私はフランク・シナトラをスィナトラと表記しようと思ったが、この人の名前は検索する機会が多いのでそのままにした。そのようにすべてが思うように表記できるわけではない。しかしそれでもできるだけ英語表現に近づけたいと考えて、エラ・フィッツジェラルドはフィツジェラルドと、チェット・ベイカーはチェト・ベイカーと、促音(そくおん=小さい「ッ」)を取って表記した。促音の問題は大きく、こんなことで解決できるわけではないが、まあそれでも少々の努力はしなければというところである。たとえば英米人には〈学校がっこう〉と発音できず、〈がこう〉と発音する人がかなり多い。英語には促音がないからである。促音の問題は面倒だが、ここでは日本語という言語に固有の問題にまで入りこむのはやめておこう。

 さらに英語やインド-ヨーロピア語族に固有の性質からくる問題もなくはなく、母音のない子音も日本語表記が難しい点の一つだ。ウェス・モンゴメリーと Wes Montgomery というギタリストは正確にはモントゴメリーだが、ほとんど「t」が聞こえないかサイレント(発音しない)なのでモンゴメリーと表記して問題はない。英米人にモントゴメリーと発音するとまず通じないが、モンゴメリーならまだいくらか通じるだろう。モンも取ってしまってゴメリーだけでも、ゴにアクセントを置いてうんと大きくガメリーと噛みつくように発音すると通じるが、モントゴメリーでは絶対に通じないというのが、一般的な対英米人の経験法則である。

 さてそこでこのヘップバーンである。これをどうしたら英語に近づけて表記できるかが、なかなか難しく手こずらされる問題だ。先ほどのアメリカ人ジェームス・カーティス・ヘボンだが、彼の本当の名前は James Curtis Hepburnである。じつはこの人もヘップバーンなのだ。ところがこの母音なしの「p」はほとんど聞こえないかサイレントなので、江戸から明治の日本人にはヘボンとしか聞こえず、彼の名はヘボンと表記されたのだ。だからヘップバーンではまず絶対に通じないが、ヘプバーンだとまあまあいくらか通じるだろうし、ヘボンだとかなり通じるのではないだろうか。江戸から明治の日本人はとても素直だったからそう聞きとったとも言えるだろう。もし日本語に促音「ッ」のように小さい「」があったらヘバーンなどと記してちょうど良かったかもしれないし、へバーンとでも書けばそのままなにもせずに通じたところだろう。だがヘップバーンではどうにもならない。

 しかし逆に今の日本人には、この有名な女優の名をヘボンとかへバーンとか言っても、まず絶対に通じない。だからあいだを取ってヘプバーンで手を打ちたいと、まあこんな方式でやっていくしかないだろう。おっと、このネット版も本当はネト版にしなくてはいけないが、そうするとまた別のややこしい問題が出てくるので、促音は取れるところでは取っていくと、まあそんな方策でやっていこうと私は思う。まあ仕方がないとは言え、これだけでも大変なことである。

 最後に蛇足ながらもう一つつけ加えよう。旧文部省、現在の文部科学省のやってきた文部行政は、ではこの問題に一体なにをやってきたのだろうか? なにもやってきていないと私は思う。文部行政は外国語や外国人名のカタカナ表記に関して、ほぼ完全に手抜きのなにもしない方策をつづけてきた。もしかしたら何かしているのかもしれないが、結果はなにも効果があがらず完全な手抜き行政になっている。近頃では「エンタメ」などに代表されるデタラメ外国語風カタカナ(もう外来語とすら言えない)を放置して、そんなものが氾濫しているわれわれの世の中である。こんなデタラメ似非外国語カタカナを新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどマスコミで使うことを禁止しない文部行政は、私にはまったく理解不能である。日本語の美しさを表現し、それでしか表現できないような語彙や概念や考え方を味わうことができた日本文学は、もう今や存在しえない。もうそんなものないのだから、存在しえないだろう。日本文学は芥川龍之介や太宰治あたりで、多分20世紀半ばあたりで、もう完全に終わったのである。日本語や日本文学を守ろうとの姿勢や努力に、文部行政は興味がないようである。まさに地に落ちた文部行政であり、お焼香を上げ、どこかひそやかな墓地にでも葬ってあげなければならない、そんなわれわれの文部行政である。そのうちどこかの事典の「日本文学」の項目に「かつてあった日本の文学。20世紀半ばで消滅した」と書かれるであろう。

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